初代 良哲
2代 良一
3代 良貞
4代 良英
5代 良意
一松堂医院現院長・種市良意氏の祖先は種市城主・種市修理之介吉範にさかのぼる。その末裔にあたる種市周扇は享保二年 (1717年)から南部藩福岡通御役医として勤務し、種市家は多くの医師を出すようになり、現院長の五代前の 文英が慶応四年(1868年)、岩手県金田一村(現二戸市)で医家を創設した。
江戸幕府における医療制度では、各藩ごとに、「お抱え」の医師を採用、各地区の住民の医療を担当させていた。 南部藩でも地区ごとに五人前後が派遣されていた。
当時、日本の医療技術は徒弟制度によるもので、西洋諸国のように医学校などによる科学的、系統的な医師養成、採用方式では なかったため、相対的な医師の技術評価が不可能だった。
そのような統一性のない状態を引き継いだ明治政府は明治九年、各府県に「医師開業試験」の実施を布達する。 官立医学校の設立が困難だった苦肉の策で、各人が取得した医療の知識、技能を一定の基準で審査する検定試験方式だった。 これに先立つ七年に東京、大阪で新しいい医制が布達されているが、地方での開業医制度は九年がスタートとなる。
それまで二百七十年にわたり続いた幕藩体制の下で当たり前になっていた藩医制がなくなることは、町民にとって大きな不安だった。 藩が一定数確保していた医師が、新政府が打ち出した免許制によって必ずしもその地域に確保できない状況になったからで、その上、藩から 給料をもらう藩医と違い、診療が有料化することでもある。そのため、当時の町民は土地や建物を提供し、医師を招くのに躍起となった。
八戸でも当時の有力者・北村益らが、所有する土地の一角を提供してスカウトしたのが、金田一にいた文英の長男・良哲だった。明治六年に八戸に移った 良哲は、九年四月十五日、医師免許を取得し、地元町人の援助で、商業地区の一つ、朔日町に一松堂医院を開業する。これは八戸の近代医学の歴史の始まり でもあった。
※図:明治32年2月18日、番町の第二医院の前で撮影。前列中央が良一(当時30歳)。
屋号の一松堂は、開業した八戸市朔日町の医院の門近くにあった一本の松の木が由来と言い伝えられている。 医院は初代・良哲の時代から現在まで百二十年間、朔日町の同じ場所で開業しており、建物は八戸大火で何度か焼けているものの、この松は現在も庭に 残り、医院を見守っている。 一松堂が八戸の町民の医療にあたることになった明治九年は、藩政時代から維新体制へ移行する激動の時代。八戸も老舗の没落、農作物の暴落 による農民の困窮など、混乱のさなかにあった。
開院から九年後の明治十八年秋、長崎に上陸したコレラが、翌十九年には東北地方でも猛威を振るうようになり、八戸周辺でも湊、八太郎から 全域に大流行した。
八戸町役場(当時)は各町内に衛生組合をつくり防疫に努めたが、当時の医学では、患者の隔離と発症地区に石炭酸を散布するくらいが主な対抗手段 で、八戸でのコレラ患者は2373人に上り、うち1318人が死亡したと伝えられている。死体は患者を隔離する「避病院」があった沼舘の馬渕川河原で 火葬された他、埋葬が間に合わず、町外れの原野に投げ捨てられるほどで、人々を恐怖に陥れた。
地域の人々にために熱心に治療にあたり、大きな信頼を得ていた良哲も、八戸を襲ったコレラの治療に取り組んでいたが、数多くのコレラ患者 を診察している中で自身も感染し、十九年九月十七日に殉職。開業からわずか十年目のことだった。
この時、良哲の長男・良一は十九歳で、まだ医師免許はなかったが、地元の有力町人の援助で東京の医学校・済生学舎で、当時最先端のオランダ医学を学んだ。
通常約四年かかるといわれた課程を二年ほどで修了し、医師免許を取得した。朔日町は古くはかじ屋、おけ屋など職人や商人が多く住んでいた地区。周辺には医院開業の ために土地を提供したり、良一の学費を援助した酒造業者があり、これらの町人によって一松堂は支えられてきた。
明治二十四年に八戸へ戻り、一松堂を継いだ良一は、西洋式の近代医学を身に付けた医師として精力的に医療に取り組んだ。
自らの命の危険を顧みずコレラ患者のために駆け回り、ついに命を落とした父の姿と、母を早くに亡くし、父も失った自分を支えてくれた 地元の人々の恩に報いようという強い思いがあったのだろう。
※図:大正6年に落成した一松堂。番町の第二医院とともに大正13年の大火で焼失した。
二代目院長・良一が一松堂に戻ってから三十三年後の大正十三年五月十六日、午前零時五十分に八戸の本鍛治町から上がった火の手は、瞬く間に街の中心部をのみ込んだ。翌十七日の東奥日報号外は、当時の模様を「暴風警戒中の西南西の烈風にあおられ・・、目抜きの場所二十余カ所千三百五十戸を焼失し、午前六時ようやく鎮火」と報じている。
一松堂も良一が開いた朔日町の第一医院と、明治三十一(1898)年以降、良一のいとこの精一が開いていた番町の第二医院の両方が灰になってしまった。この大火は関東大震災の翌年だったということもあり、政府からの援助はほとんど受けられなかった上、急激な地価高騰のため、焼け出された町民のなかには、家や店の再建が出来ないことも数多かったという。
良一は焼け跡で医療活動を再開、翌年ようやく朔日町に再建した医院に掲げられていたのが「因幡(いなば)の白ウサギ」のレリーフ。だましたワニ(サメ)に皮をはがされ、苦しんでいる白ウサギを大国主命(おおくにぬしのみこと)が助け、手当てするという、古事記の有名な一場面だ。良一のひ孫にあたる良意氏は「このレリーフは当時、八戸駅(現本八戸駅)から市街地に続く坂の途中からも見えたそうです。二代目(良一)は下北や二戸方面まで往診に出かけていたらしく、それらの患者に『(通院するときは)駅からの坂を上がって"因幡の白ウサギ"が描いてある建物を目指してくるように』と教えていたそうです。」と話す。
当時は八戸町内や周辺の村などではまだ多くの人が読み書きができなかった。それらの人が病院の場所をわからず、治療が受けられなくては大変―との気持ちがこの絵となり、以来長い間にわたり同院のシンボルとして親しまれていた。
往診に出かける良一はシルクハットにフロックコート姿で人力車を走らせた。急病人を救うため汽車を止めたとか、貧しい人からは治療費を取らなかったなど多くの逸話が残っており、八戸の近代医学の第一人者であることとともに、「医は仁術なり」を体現する名医として当時の新聞にも取り上げられている。良一は「書画骨董など、火事で焼けるような財産は持つな」と常に口にし、代わりに"焼けず、盗まれない財産"として後進の教育に力を注ぎ、自宅に多くの書生を置いていた。
良一が愛用したシルクハットは、現在も種市家に大切に保管されている。十四日に八戸市内で行われた百二十年祝賀会では、良意氏に携えられたシルクハットが会場を見守っていた。
※図:昭和初期の一松堂医院レントゲン室。レントゲン機械は当時はまだめずらしいものだった。
「土地を買うお金があったらレントゲンを買った方がいい」と常に口にしていたのが二代目良一。その言葉通り昭和初期には、県内でもいち早くレントゲン機械を取り入れたほか、積極的に外科手術を行った。そのような先進的な医療を見て育った良一の長男・良貞も早くから医学の道を志し、東京の日本医専に進学、医師となった。
そのような先進的な医療を見て育った良一の長男・良貞も、早くから医学の道を志し、東京の日本医専に進学、医師となった。良貞はその後も多く東京で医専の講師を務めていたが、昭和十二年、良一が病に倒れたために郷里に戻り一松堂を継ぐ。良一がそうであったように、一度は八戸を離れていても節目には必ず郷里に戻り父の跡を継ぐ―。この運命はその後も代々続いていく。
良貞が医院を引き継いだ時代は太平洋戦争を挟み、医薬品を物質が不足する中での苦難が続いた。八戸市医師会二十五年史(昭和四十七年発行)によると、「昭和二十年一月に徴兵予備検診、三月に空襲罹災民医療救護に出動、四月に県より医薬品、衛生材料の一部を疎開するよう通達・・」など、戦時下の医師たちの活動が記録されている。
一松堂が開業している八戸の市街地は空襲を免れ、焼け出された人は少なかったが、戦中から戦後にかけ、市民はひどい食糧難に悩まされた。当時、青森医専(後の弘大医学部)では学生の食料がないため休校したほか、八戸でも父母らが大豆や野菜などをかき集め、学校に送ったという。そのような苦しい生活の中、良貞は近隣の無医村での診療や妊産婦を無料で診断するなど、献身的に人々の命を救ってきた。
「一松堂の門をくぐっただけで治ったような気がする」とまで言われるようになっても、良貞はそれにおごることなく、「医師は囲碁、将棋や賭け事をするな」と、長男の良英に強く言い残した。"あと一手"を待って患者を死なせるようなことがあってはならない。それほど真剣な気持ちで職務を全うしろ―という意味で、ほかに、自分が働いた以外の報酬を受けることを嫌い、株でもうけたり、美術品を集めることを禁じており、これは家訓として現在まで引き継がれている。
余談となるが、良貞の妹の翠(みどり)は文豪・小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の二男で英語教師の稲垣厳に嫁ぎ、京都で暮らしていた。父・良一が亡くなり、良貞が一松堂を継いだ昭和十二年、翠もまた夫を亡くし、八戸へ帰郷する。その後、常海町で下宿屋を営んだ時の下宿生の一人が、後に芥川賞作家となる三浦哲郎で、三浦の自伝的著書「笹船日記」に翁は下宿先の「稲垣のおばさん」として登場。大きな時計と立派な装丁の本がたくさん並んでいた、稲垣の下宿屋の様子が紹介されている。
※図:戦前~戦後の一松堂医院。この塀は十勝沖地震で全壊した。
三代目の良貞が東京で長く暮らしていたため、長男・良英は学生時代を東京で過ごし、府立四中(現在の東京都立戸山高校)から慶応義塾大へ進学した。
幼いころから医師を志した父とは逆に、良英は学生時代、医師を継ぐ気はあまりなかったらしく文学を志した。浪人時代の下宿でも、後に「月山」で芥川賞を受ける森敦と一緒に、物書きへの道を目指し、文学について語ったという。在学中に召集を受け、陸軍の師団参謀付情 報将校として七年間満州に赴任、陸軍大尉として三本木(現十和田市)で終戦を迎えた。
一松堂をこの代で終わらせてはもったいない―との周囲のすすめもあってついに医院を継ぐ決心を固め、昭和二十一年に盛岡の岩手医専(後の岩手医大)に入学。文学青年から陸軍大尉を経て医学生へ―という、歴代院長の中でも異色の経歴だ。
慶応大に学び、長く軍隊にいた良英はこの時三十四歳。二十歳前後の他の新入生とは一回り以上も年が離れていた。学制改革の波で岩手医専が廃校の危機にさらされた時には、学生代表として活躍し、盛岡の自宅には常に学生が集まっていたという。良英は在学中に結婚しており、三十六歳のとき、長男で現院長の良意氏が生まれた。医専を卒業した翌年の昭和二十七年、四十歳で医師国家試験に合格。昭和二十九年に一松堂に戻り、産婦人科を創設。現在の一松堂の基礎を築き、八戸の地域医療に専念する。
映画監督の谷口千吉をはじめ、元国鉄総裁磯崎叡、元参議院議長長原文兵衛など学生時代の仲間や、ひいきにしていた大物歌舞伎役者との交流など、第一線で活躍する人物と晩年まで付き合いがあり、地方都市の一医師としては特異なほど広い交友関係を持っていた。
八戸市医師会の五十年史を担当する金田内科耳鼻科医院の金田昭治院長は良英について「風格と威厳を備えた大先輩で、よく面倒を見てもらった。多趣味で交遊も広く、医師らしくない人だったので、ある医師が良英先生に『種市さんは一松堂の伝統の上にあぐらをかいているんじゃないか』と突っかかると『"電灯"の上であぐらをかいたらやけどしてしまうよ』と、得意のセンスでさらりとかわしたという話も聞いた。人間味にあふれた患者との付き合い方も、医師だけでなくいろいろな世界を経験していたことで培われてきたのかもしれない。」と、昭和六十年、やはり病に倒れこの世を去った良英を回想していた。
※図:現在の一松堂医院
明治二十七年の記録では、当時八戸の開業医は二代目良一を含め十一人いたとされているが、現在までの直系の一族で継承しているのは、一松堂だけ。世襲で受け継いでいける業種と違い、医師は国家資格がなければ開業できない。五代にわたり、息子、それもすべて長男が同じ場所で医院を継承しているというのは大変珍しく、それがいかに難しいかを示している。
現在、一松堂を継いでいる五代目の良意院長は「不思議に思うのは、たとえ一度八戸から離れていても、節目には八戸に戻り、医院を継ぐことになる」と代々の歴史と自身を重ねあわせる。「父(良英)も、もともと医師を目指していたわけではないし、別な道を選ぶこともできたはず。父も私が医師としてこの医院を継ぐとは思っていなかったでしょうね。私の長男、二男はまだ小学生ですが、百二十年続いた医院に生まれたとはいえ、ほかにやりたいことがあるかもしれないし・・。でも、こうやって続いているから、運命みたいなものは感じます。」
昭和六十二年に建て替えた現医院は、正面の外壁と待合室の壁に「因幡の白ウサギ」が復活、一松堂のシンボルとして患者を迎えている。良意院長は昭和五十八年に医院を継いで以来、産・婦人・麻酔・内科と幅広い診療科目を手掛けている。先代からの患者や親子二代にわたる患者なども多く、病院勤務時代よりさらに患者と身近に接する機会が増えた。
「一松堂を継いで、外来患者を数多く診るようになってから『治療することは信用してもらうこと』だと実感しています。治療は医師だけが行うのではなく、患者が自分の状態をよく知って、協力してくれなければ成り立たないと思う」と地域医療に携わるものとして、患者と向き合う中での率直な感想を漏らす。
「私が一松堂を継いでから十二年。これまでの百二十年のうち、やっと一割を担当したと考えると、初代からの歴史の重みを感じます。創立百周年を迎えたころ、父は庭の松を見ながら『派手ならず、地味ならず、金持ちにもなれず、物足りないが、この松のたたずまいのように平凡だから(一松堂は)続いたのかもしれない』と言っていましたが、最近になって、その気持ちがよく分かるような気がします。」
維新による混乱や大火、戦争など、百二十年の道のりは決して平坦ではなく、医院が途絶えてもおかしくない危機をくぐり抜けてきた一松堂。代々の院長が見上げてきた由来の松は、今日も平凡に医院を見守っている。